「保科正之(ほしなまさゆき)」という名前を聞いたことはあるかな?
じつは、江戸時代が260年も長く続いたのは、この人がいたからだと言われるほどすごい人なんだ。
将軍さまの弟として生まれながら、最初は正体をかくして育てられたという、まるでドラマのような人生を送った人でもあるよ。
今日は、そんな保科正之がどんなすごいことをしたのか、だいち君とさくらちゃんと一緒に楽しく学んでいこう!



保科正之ってどんな人?秘密の生い立ちと家光との出会い
保科正之は、2代将軍・徳川秀忠の息子として生まれたけれど、お母さんの身分が低かったことや、当時の複雑な事情があって、「将軍の子」であることをかくして育てられたんだ。
信州(今の長野県)の保科家というお家に養子に出され、そこで「保科正之」として立派に成長したんだよ。
兄である3代将軍・家光が、正之が自分の弟だと知ったのは、なんと大人になってからだったんだ。
ある日、家光がタカ狩りの途中で立ち寄ったお寺の和尚さんから、「じつは、保科正之殿はあなたさまの弟君なのですよ」と教えられたという伝説があるよ。
正之のまじめで謙虚な性格を気に入った家光は、彼をとても大切にするようになったんだ。
家光は亡くなる直前、正之の手を握って「あとの幕府のことを頼むぞ」と遺言を残したほど、心の底から信頼していたんだよ。


江戸の町を救った!明暦の大火での大活躍
保科正之がした仕事の中で、特に有名なのが「明暦の大火(めいれきのたいか)」という江戸時代最大の大火事のあとの復興だよ。
江戸の町がほとんど焼けてしまい、みんなが困っていたとき、正之はリーダーとして素晴らしい決断を次々と下したんだ。
まず、お城の天守閣(一番高い建物)を立て直すのをやめさせたんだよ。
普通なら「将軍さまのお城を一番に直そう!」となるところだけど、正之は「お城を飾るよりも、家を失った町の人たちを助けるのが先だ!」と言ったんだ。
「国の貯金は、こういう困ったときのためにあるんだ」と言って、お米やお金を配って人々を助けたんだよ。
さらに、火事が広がらないように道路を広くしたり、火よけの広場を作ったりして、今の東京の町の基礎を作ったのも正之なんだ。


お年寄りや子供に優しい!世界初の「福祉」を始めた
保科正之は、自分が治めていた会津(今の福島県)でも、今の世の中にある「年金」や「保険」のような仕組みを世界に先駆けて作ったんだ。
例えば、90歳以上のお年寄りには、国からお米をプレゼントする制度を作ったよ。
これは、身分に関係なくみんながもらえるもので、お年寄りを大切にする優しい決断だったんだ。
また、冷害などで作物が育たず、食べ物がなくなったときのために、ふだんからお米を貯めておく「社倉(しゃそう)」という仕組みも作ったよ。
このおかげで、他の地域でたくさんの人がお腹をすかせて困っているときでも、正之が治める会津では一人も餓死者(がししゃ)が出なかったと言われているんだ。
弱い立場の人を助ける仕組みを一生懸命考えた、まさに政治家の鏡のような人だったんだね。


平和な時代を作るための「ルール作り」
それまでの江戸時代は、まだ戦国時代の名残があって、主君が死んだら家来もあとを追って切腹する「殉死(じゅんし)」という厳しいルールがあったんだ。
正之は「命を無駄にするのは良くない」と考えて、この「殉死」を禁止したんだよ。
これによって、武士たちは「戦って死ぬこと」よりも「政治や学問で世の中を良くすること」を大切にするようになったんだ。
また、お殿様が亡くなったときに跡継ぎがいないと、その家はすぐにつぶされてしまう厳しい決まりもゆるめてあげたんだ。
これによって浪人(仕事のない武士)が減り、世の中がとても平和になったんだよ。
「武力ではなく、思いやりとルールで国を治める」という考え方を広めたのが、保科正之の大きな功績なんだ。

まとめ
保科正之がどんな人だったか、わかったかな?
自分のことよりも、常に「世のため、人のため」を考えて行動した、とても誠実な人だったんだよ。
最後に、彼がしたすごいことをまとめておくね。
- 3代将軍・家光の弟として、幕府を陰から支え続けた。
- 江戸の大火事のあと、お城の再建よりも町の人たちの救済を優先した。
- お年寄りにお米を配るなど、世界に誇れる福祉の仕組みを作った。
- 殉死を禁止するなど、命を大切にする平和な政治を進めた。
保科正之が作った「人を大切にする仕組み」は、今の私たちの暮らしにも通じるところがたくさんあるね。
もし福島県の会津に行くことがあったら、ぜひ彼のことを思い出してみてね!
